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​源頼資

平安時代の武将
生没年不詳
私闘で橘惟行の館を焼き、人を殺害した罪
処罰の主体:朝廷
下野→土佐

下野守
G106 源 頼資を参考
下野守在任中に上野介橘惟行と私闘し、惟行の館を焼き人民を殺害したとして訴えられた。この罪により康平7年(1064年)9月に佐渡国への流罪が決まった。しかし深雪により佐渡への護送が困難に成ったため、同年12月改めて土佐国へ流刑になった。治暦2年(1066年)7月に勅により免罪されたが、翌月病死した。
 勅撰集入集歌はなかったが和歌を嗜んでおり、永承年間(1046 - 52年)から康平3年(1060年)の間に、橘資成とともに頼資資成歌合を催すなどしている。
 後代、五男資兼の系統が摂津国嶋下郡溝杭(現在の大阪府茨木市内)を代々領有し、溝杭氏として存続した。
https://www.his-trip.info/keizu/entry105.html)2026/1/8最終閲覧
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